巻子本(紙本墨書) 「去月廿八日山越ニ而館村へ罷越候積ニ而、ブーヒエー同凡三里程山中へ入込候處いまた雪深く何分歩行難出来、且雲霧深く道案内のもの方角を失ひ候ニ付、途中より引帰し翌廿九日本道鶉村及稲倉石へ相越、翌晦日館村元松前陣屋焼失其外所々見分同日帰営仕候、鶉、館邊廣原之地ニ而砲台之見込無之、蛾虫より鶉、館江之道筋 但之道筋僕初テ也谷傳ひニ而、山少しも無之、是も砲台場所見込無之、いさゐハブーヒエよりブリュ子ーへ文通可有之、砲臺之見込者稲倉石而巳ニ御座候、右申上度 早々 四月十六日 四郎次郎 圭介様」(稲倉石付近(現厚沢部町)に砲台を築こうとしていることが書かれています。4月16日と書いているように見えますが、新政府軍の進攻状況から考えると4月6日と思われます。)